権力のおごり マルコ福音書 6:14-29

 聖書のリアリズムとでも言おうか。ぞっとする話である。

 王の誕生日の祝いに、招待客の前で踊りをおどり、褒美に何でもとらせようとの王の申し出に、うら若い舞姫サロメは、ヨハネの首を所望する。サロメは、ヘロデの妻ヘロディアと彼女の前夫との間に生まれた娘である。サロメという名は、同時代の歴史家ヨセフスの書に出てくる。

 19世紀後半に活躍した英国の作家のオスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」は有名である。囚人ヨハネの魅力に取り付かれ言い寄るが袖にされ、上に述べたように舞の褒美にその首を所望する。王は、首はいけない。ほかのものなら何でも上げようとありとあらゆる宝を並べあげるが、サロメは、「ヨハネの首」と言って引かない。王は、ついに席に崩れるように座り込み、この女に望みのものをやれ!さすがは母の子だ!と断を下すのである。終部は、盆に載せられた首にサロメが接吻するという大いに物議をかもした物語になっている。聖書の筋書きからは大きくそれた情念的な物語になっているが、人間の怖さを描いたものとして異彩を放っている。

 とは言え、われわれの生きる世界には、もっと恐ろしいことが現実に起こっている。

 ブッシュを見よ。シャロンを見よ。そして、小泉を見よ、を付け足したい。特攻隊に涙する小泉氏である。なら、パレスチナの自爆テロに涙しそうなものだが、これはアメリカに敵対する行為として排斥し、ブッシュの原爆こそ未使用だがその他のあらゆる強力な破壊兵器を駆使した野蛮な大量殺戮を、時に胸をはり声高に、時に人を食った鼻歌まじりで、賞賛する。あれは、何だ!人間か?

あれは何だと言うわれわれも、盆の上ではないが、テーブルの上に新聞を広げて、野蛮な戦争の記事を毎日さほど驚きもせず見ている。恐ろしい話である。

こんな恐ろしい記事が、十二弟子たちの宣教実習の記事にサンドイッチされて記載されている。つまり、宣教の現場は、このような歴史の現実の中にあるのだということだ。歴史の中で何が起こっているか一向にお構いなしで、無時間的真理を説くかのような宣教は、イエスの宣教ではない、とうことなのだ。

一昨日、五月三日は、憲法記念日であった。戦後半世紀余り、この国が軍隊をもって他国と戦争することなく、ひとりの戦死者も出さずに来られたのは、平和憲法のおかげだった。いま、アホな連中は、「備えあれば憂いなし」といって、いつでも戦争ができるようにするための有事法制を通そうとしている。軍備は、決して平和をもたらすことはない。超軍事大国アメリカを見よ。アメリカの援助を受けて強大な軍事力を持ったイスラエルを見よ。一目瞭然である。日本は、既に軍事大国である。あとは、有事法制を通すだけである。そうなれば、これから二十年、三十年後の日本はどうなるのか。「憂いなし」の国になるのか。NO!である。だれがその付けを払うのか。近隣の国々との緊張は高まり、ちょっとしたことをきっかけとして取り返しのつかない戦争が始まるのだ。

いま黙っているのは、/権力のおごりを承認するに等しい。

ずるずると泥沼に/引きずり込まれ、/沈んで行く。/声をあげよう!/明日では遅すぎる。/ひとりデモ、二人デモ、/きょう、/声をあげよう。/「有事法制にNO!

                                             2002/05/05      
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