自己脱却 マルコ福音書 7:1-23

「また、カメルーン、やってくれました。朝8時から練習ということで、報道陣が大勢待っていましたが、待てど暮らせど現れない。ホテルに問い合わせると、選手はまだだれも起きてこない。練習は、12時からということになったそうです」と、新潟からの現地リポーターの報告。東京では、テレビのコメンテーターたちから、12時もどうなるか分かりませんね、と暖かい笑声が起こる。

今や日本中が知っているように、予定より三日も四日も遅れて九州の中津江村に到着した。飛行機の燃料代や諸経費を浮かすためだとか、選手の諸手当増額の要求だとか、ビザが間に合わなかったとか、今日の日本ではちょっと考えられないようなことが原因で旅程が大幅にくるったようだ。村を上げて準備していたいろいろな計画はみな流れてしまった。それでも、ここが言いたいところだが、中津江村の人たちは、笑顔でカメルーンの選手たちを温かく迎えた。ひょうひょうと文化の壁を乗り越えたその鷹揚さには、心を打たれる。ワールドカップの戦績表には残らないいい話だと思う。

さすがに、日本におけるワールドカップの開幕戦でもある、新潟スタジアムでの対アイルランドの試合は、定刻どおり、昨日(1日)午後二時半に開始された。結果は1対1の引き分け。アイルランド、カメルーン双方とも勝ち点1。カメルーン、なかなかやるではないか。中津江村の人たちも大喜びのことだろう。いや、最初にあげた1点を守りきれなかったことを悔しがっているかも知れない。

村興しに利用しようという意図はあったにしても、それだけではなかった。暖かい人情というか、人間味のある素朴な善意みたいなものが感じられて、たとえば瀋陽領事館の外交官たちの薄ら寒い対応などと比べてもほっとさせられるし、何かとても救われた思いになるのである。人間らしい暖かい心ほどありがたいものはないと思うわけである。

<ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。・・・(彼らは尋ねた。)「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」>

イエスは、氷のように冷たいファリサイ派の人々や律法学者たちの心の動きに怒りを覚え、そのような心を作り出す彼らの宗教とはいかなる宗教であるのかを問題にされたのである。<イエスは言われた。「イザヤは、あなたたち偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』>

ファリサイ派の人々や律法学者は、律法を正しく守ろうとした。そして、どんどん暖かい心を失って行った。イエスは、そのような彼らの宗教を、全面的に否定されたのである。そのことは、当時のユダヤ教を根底から覆えすことにつながるものであった。彼らの背後にあるエルサレムの当局がイエスの活動に目を光らせたのは当然と言えば当然であった。イエスの福音宣教の革命性(彼らにとっての危険性)を、彼らは、イエスの弟子たち以上に敏感に察知していたのである。イエスの宗教の革命性を明確に受け取り神学的にことば化したのは、かつてファリサイ派のリーダーであった使徒パウロである。(エフェソ2:14以下などを見よ。)

 われわれの中にあるファリサイ的な信仰の形をこぼち、イエスの十字架の熱い愛によって創り出される人間味ある信仰の形を回復しなければならない。
2002/06/02
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