灯台下暗し マルコ福音書 7:24-30

 ファリサイ派や律法学者たちのと激しいやり取りの後、イエスは、異邦人の地であるティルスの地方へ出て行き、ある人の家に身を隠された。

 ここでちょっと立ち止まり、イエスというお方について、わたしたちはどのようなイメージを描いているかを問うてみたい。いまわたしは、「激しいやり取り」と書いた。ある人たちは、そのような言い方に違和感を持つかも知れない。イエスは、どこまでも柔和で優しいお方。声を荒げることも、人を叱責することもない。どんなときも、笑顔で優しく語られる、いかにもクリスチャンらしいお人柄のお方でなければならない。

 福音書を読んでわたしが受けるイエスの印象は、そのようなやわなものではない。捕縛され、十字架につけられてしまわれたイエスは、敵対する側の人からは、自分たちに向かって鋭く攻撃を仕掛けてくる危険な人物としてしか見えなかったのである。だからこそ、彼らは早い時期から、普段は決して行動を共にしない派の者たちとも手を組んで、「どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」のである(マルコ3:6)。

 彼らは、イエスを危険人物として見張り、エルサレムからわざわざ調査員をガリラヤに送り込んでその動静をいつもチェックしていたのである。その調査員たちに向かってイエスは、「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。・・・」といったことばを投げかけている(先週の個所。マルコ7:6)。

 イエスは、イスラエルの宗教の徹底的な見直し、旧約聖書の根本的な読み直しを求められたのである。「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とは、イスラエルの宗教を根底からひっくり返すときが来た。さあ、イスラエルの人々よ、いままさに方向転換(悔い改め)の時がきたのだ、というメッセージであった。こじつけのような律法解釈のやりくりや見せ掛けの敬虔によってイスラエルを救うことはできない。長い歴史を経て大きく道を逸れてしまったイスラエルに、徹底した方向転換(悔い改め)をもとめ、真の救いの道(福音)を告げよ。イエスは、そのようにして、弟子たちをイスラエルの町々村々に派遣されたのである。

 イエスの宗教改革は、生半可なものではなかった。ご自身の全存在(命)をかけた、徹底的なものであった。いま、宗教が最も大きな人類の問題となっているこの時代に、教会は、この点をはっきり認識し直さなければならない。いわゆる「宮清め」の記事を見ると、イエスはエルサレムにおいて、<神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。・・・>とある。ほとんど乱暴狼藉である。こうも書かれている。<そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家とよばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」>そして、これに続けて、<祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。>と書かれているのである(マルコ11:15-19)。

 「祈りの家」におけるイエスの激しい行為を通して祈りの意味を考える必要がある。

 さて、きょうの題を「灯台下暗し」とした。イエスが、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と語られた(マタイ15:24)当のイスラエルは、イエスを理解しない。救いの希望は、伝統の重荷や鎖にがんじがらめにされていない異邦人シリア・フェニキアの女性のうちにこそ残されているのではないか。このギャップが見えなければ、この記事は分からない。異邦人の女性に向けられるイエスのまなざしは、限り無く優しい(マタイ15:28)。

2002/06/09
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