エッファタ(開け) マルコ福音書 7:31-37

 わたしがまだ若い牧師だったころのある日、どういったつてであったか思い出せないが、都内のどこかの教会の数人の若い男女が、一人のリュウマチに苦しむ仲間の女性を連れてやってきた。彼らは、女性を抱えて教会の中に運び込み、わたしの前に置いた。女性は、見るからにつらそうであった。手指の関節や体中の節々が四六時中痛みどうすることもできない、と訴えた。若者たちは、牧師なら何かできるだろう、何かするだろう、という目でわたしを見ている。わたしは、あいまいに対応するだけで、何もしてあげることができない。しばらくの時を経て、ちょうどそのころ教会で学んでいたヨブ記のことを少し話した。リュウマチの女性は反感をむき出しにして、そんな話はいらない、痛みを取り去って欲しいのだ、と実に単刀直入に言った。

 今だったら、その子の手と腕を取って、とにかく祈ってあげたかもしれない。

 そうそう。あれは、「ベトナム戦傷児に医薬品を送る」募金運動に奔走していた頃のことだった。遠くの戦傷児に医薬品を送りながら目の前で痛む者を癒すことができない。そういった負債感が尾を引いて残ったような気がする。

 説教しながら、これは、半分の宣教だな、と思う。三分の一の宣教かも知れない。<イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒された。>(マタイ9:35)これが、宣教の三本の柱である。イエスは、「教え」「宣べ伝え」「癒された」。教会は、この三つを、教会のミッション(務め・宣教)として追い求める群れでなければならない。S兄を迎えて「新しい働き」に力を注いでいるのも、この宣教の理解に基づくものである。

 イエスは、「エッファタ(開け)」と言って、「耳が聞こえず舌の回らない人」を癒された。<イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めされた。しかし、イエスが口止めされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。>

 これは、また、別の半分あるいは三分の一の話である。次の章(8章)には、イエスが、ベトサイダで盲人をいやされた物語が出てくる。その記事ときょうの記事にはさまれて、四千人の人々が七つのパンと少しばかりの小魚によって養われた物語がある。人々は、癒しやパンの奇跡に目を奪われ、イエスの神の国の宣教が見えなくなってしまっている。イエスは弟子たちに、「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。」と言っておられる(8:1718)

 イエスはあの「富める青年」に、「あなたにかけているものが一つある」と言われた(マルコ9:21)。この青年の場合、それは、「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施す」ことであった。マルタにもイエスは、「必要なことは一つだけである」とさとされた(ルカ10:42)。イエスをもてなすこと(癒しの業)に心を奪われているマルタには、マリアのようにことばに聴くことの必要を説かれたのである。

 主よ、耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の聞けない人を話せるようにしてください、と祈ります。 

2002/06/30
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