イエスは何者か マルコ福音書 8:27-9:1

 ある唯物論の哲学者は、神とは人間の願望を投影したものである、と言った。一概に否定し切れない洞察である。

 イエスは弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だといっているか」と言われた。弟子たちは、ある者は「洗礼者ヨハネだ」、ある者は「エリヤだ」、ある者は「預言者の一人だ」と言っています、と答えた。そこでイエスは弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねられた。この問いに答えてペテロが、「あなたは、メシアです」と言った。このくだりはマタイの並行記事では次のように書かれている。<シモン・ペテロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。・・・」>(マタイ16:16-18

 実に、後の教会は、このペテロの、イエスはメシア、生ける神の子である、という信仰告白の上に建てあげられたと言ってよい。

 信仰告白が、人間の側のことがらとしてではなく、神の側の働きかけによって生起することがらであることが、マタイにおいて強調されている。

 前回(先週)、半分の宣教、三分の一の宣教ということを言った。それにならって言えば、信仰告白にも、片面の信仰告白がある、と言える。信仰告白が、人間の都合や願望によって歪曲されて行く。信仰告白の内実が、変質してしまう。それは、ペテロが、「あなたは、メシアです」と言った瞬間から始まる。すなわち、「あなたはわたしがこのようであって欲しいと願うところのメシアです」というところへ、知らず知らずのうちに少しずつずらされて行くのである。

 「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と、イエスは言われた。このイエスの宣言をめぐっては、微妙な問題が生じる。ペテロの信仰告白の上に教会が建てられた。が、やがて重心が、目に見える「教会」へと移行して行く。そういった危険が、隠されていたのである。この小さいように見えるずれが実は重大な問題なのである。実際、時と共に、教会は、肥大化する地上の勢力としてヨーロッパに広がり、今日のアメリカに顕在化している。こうなるともはやずれを修復するどころではなくなってしまったのである。

 使徒パウロは、ガラテヤ書の冒頭で、自己の使徒職の証明として、<人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ>と述べている。教会や、教会の要人のお墨付きをもらって安住してしまわない伝道者の姿がここにある。「人々からではなく、・・・」とは、教会の再エルサレム化(勢力としての教団化)への抵抗のことばであった。今日、教会は、ひとりのパウロを必要としているのである。

 イエスが、<ご自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちに戒められた>(マタイでは、<ご自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた>)理由がここにある。「大宣教命令」(マタイ28:16-20)の旗を振ってなされる勢いのいい伝道が、実際には極めて人間的な願望を投影したものでしかないことを見るにつけ、イエスの口止めに留意することの重要性を思わないではおれないのである。 

2002/07/07
HOME  説教要旨目次