信仰の系譜 マルコ福音書 9:2-13

「ある金持ちの畑が豊作だった」で始まる「愚かな金持ち」のたとえはご存知だろうと思う(ルカ12:16-21)。倉を壊して、もっと大きいのを建て、これでこの先ずっと、食べたり飲んだりして楽しめると思っている男に、その夜、死が訪れる、という話である。

 どうだろう。そんな愚かな金持ちにはなりたくないと思うだろうか。みんながみんなその夜死ぬわけではない。愚かと言われていい。あんな金持ちになってみたいものだ、というのが大方の本音ではないか。

 どうせいつかは死ぬ。せめて、生きている間は、確かな何かを手中に納めて、安心して暮らしたい。地位とか、資格とか、宝石とか、不動産とか、・・・。あるいは、家族とか、友人とか。何か、確かなものを手の中に納めておきたい。そう願うのは、当然ではないだろうか。

 あなたがたはわたしを何者と言うかというイエスの問いに、ペテロは、「あなたは、メシアです」と答えた。その直後、イエスは、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と弟子たちに告げられた。イエスさま、それはないでしょう。

 ペテロたちは、イエスに見出され、召されて弟子になった。この方にお従いして行けば間違いないと確信した。やがて時が来たら、だれがイエスの左右の座を閉めることになるのだろうかなどと弟子たちどうしで論じ合ったりもした。「排斥され殺される」などということばは、聞きたくもなかったに違いない。ペテロは、間違ってもそのようなことはおっしゃらないでくださいと、イエスをいさめた。すると、<イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「サタンよ、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」>

 乱暴な言い方になるが、神を手なずけて手中に納めておくことなどできないのだ。宝物や豊作の穀物は、大きな倉を建ててそこに貯蔵することができる。しかし、神を大伽藍に閉じ込めておくことはできない。

 変貌の山で、ペテロたちは、イエスについての天からの声を聴く。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 

聞く。聞いて従うのである。

パウロは、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」と書いている(ローマ12:2)。この「変えていただき」という語は、マルコ9:2でイエスの変貌を告げるメタモルフォオーという同じ用語である。パウロは、イエスの変貌の物語を知っていてこの語を用いたようである。

ペテロたちの信仰が、イエスの神性にふれて、メシア告白にふさわしい信仰に次第に変えられていくひとコマをきょうの個所に見ることができる。

讃美歌、先週と同じ504番<主よ、み手もてひかせたまえ>を歌いましょう。

追記:朝日新聞から最近出た「キリスト教がわかる。」(AERA MOOK)は気の利いた本です。ペシャワール会のクリスチャン医師中村哲さんの「実践のなかにこそ答えがある」という文章を感銘深く読んだ。一箇所引用します。
<私は現地のイスラム教徒や共産主義者たちと、けっして神学的論議をしなかった。良いことはだれにも良いことで、悪いことはだれにも悪いことである。ただ行為として現れる結果に、人々は信を置く。共通の神の発見は、共通の人の発見である。そして、その普遍性は無限に多様な外形を超えて厳在し、神聖な空白地帯として、存在の根底において万人をつなぐものである。>
エリヤ、モーセ、イエスの居合わせる変貌の山とは、まさにこの「神聖な空白地帯」ではないか!
2002/07/14
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