「できれば」と言うのか マルコ福音書 9:13-29

 ある方が、「わたしたちは迷える99匹ですね」と言われた。羊飼いは、迷子の一匹の羊を捜しに出て行く。ところが、こちらは大丈夫といって残された99匹が、いまや迷える羊状態である。それが、教会の姿ではないか、というのである。

 いやいや、ほんとうにその通り。きょうの聖書の個所は、まさにそういった状況を描き出していると思う。

 ここに、ひとりの迷える羊がいる。霊に取り付かれ、物が言えない子である。口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせ、火の中、水の中、所かまわず、に倒れこんでしまう。父親は、この子を何とか治して上げたい。だれか助けてくれる人はいないかと、藁にもすがる思いである。この父子を直接的に神の助けを必要としている迷える羊とするならば、助けるために有効な手立てを何一つ施すことのできないイエスの弟子たちはまさに、迷える99匹である。

彼らは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネがイエスと共に山に登り、後に残された弟子たちである。イエスとリーダー格三人の不在の中で、この弟子たちは、彼らに委ねられた務めを充分に果たすことができない。癲癇の子を癒しその父親を安心させることもできない。

父親は、悲しさと失望の中でイエスに、あなたのお弟子さんたちは何もできませんでした、と訴えた。するとイエスは、「何と信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、わたしはあなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れてきなさい」と言われたのである。

 これはまさに、教会に語りかけられたものとして聴かなければならないことばだと思う。何もできない教会が、ここにある。そして、主イエスは、嘆いておられる。しかっておられる。ここにイエスの不在と、イエスの再臨との間を生きる教会の姿を見る思いがする。

イエスは、「その子をわたしのところに連れてきなさい」と言っておられる。そこに、迷える99匹に残された希望があるのである。教会は、イエスの不在と現臨の激しい振幅の中におかれて生きる群れである。「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と主は言われる(ヨハネ16:33)。

 「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と願う父親の訴えは、大丈夫に見えた、迷える99匹の切実な祈りでもなければならない。そして、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」と言われるイエスに向かって、わたしたちも、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫び声を上げるところへと導かれたい。

 「世界がもし100人の村だったら」(マガジンハウス)を読んでいて、つくづく教会は、この矛盾の多い時代に、何もできないでいる、迷える特権的99匹である場合が多いと思う。世界には、あまりにも大きな悲しみや痛みや不公平があって、多くの人々を苦しめている。山積する困難な課題の中で、教会は全く無力なのである。なぜ無力なのか。祈りによらなければ、何事もできないのだ。主は、手におえぬどんな問題であろうと、それを携えてわたしのところにもってきなさい、とわたしたちを呼んでおられる。

主よ、信じます。信仰のないわたしをお助けください。
2002/07/21
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