一杯の水を飲ませてくれる者は マルコ福音書 9:38-50

 今週、CSの二泊三日のサマーキャンプが、FCCで開かれる。<「いのち」の重さ、大切さ>がテーマ。「教師の友」からとったものだけれど、抽象的で、子供たちには、いや子供にも大人にも、よく分からないだろう。教材に、例の「世界がもし100人の村だったら」という本が紹介されている。で、まずみんなで男女の大人子供100人の人形を紙で作ることにした。それから、100個のパンと100匹の魚。これを、広いところへ持っていって、ひろげてみようと思う。

 「みなさん、ここに、100人の人がいます。100個のパンがあります。100匹の魚があります。どのように分けたらいいか考え、並べてみてください」と言ってみる。「簡単だよ」、とだれかが言うかも知れない。じゃあ、お願いしますと言えば、多分、一人一人の人にパンと魚それぞれ1個ずつといった分け方をするのではないか。こどもは、半分でいいんじゃない、という子がいるかも知れない。半分じゃ少なすぎるよ。3分の2くらいがいい、と言う子がいるかも知れない。

 二十世紀は、戦争の世紀だった。その原因は、単純化して言えば、領土や物資の分捕り合戦、つまり「分配」をめぐるものだった。「分配」をめぐって、経済論理が形成され、各地で闘争や革命の火の手が上がり、世界中を巻き込む大きな戦争が起こった。戦争が終わると、分配の仕方について対立する社会主義陣営と自由主義陣営の半世紀に及ぶ長いにらみ合いが続いた。ベルリンの壁が崩れ、社会主義陣営は失速し、あっという間に崩壊した。こうして世界全面核戦争の危機はからくも回避されたけれども、各地に戦争は絶えることがなく、「分配」の問題は未解決のまま放置される結果となった。

 パンと魚それぞれ59個を6人の人たちが抱え込み(実は、アメリカ)、39個を74人が分け合い、たった2個のパンと魚に、20人の大人や子どもが群がっている。これが、今日の世界の状況。認めたくないけれども、厳然たる事実だ。

実際、「分配」の矛盾はますます拡大し、窮鼠猫噛み現象がいたるところで起こっている。よくみれば、社会主義陣営を呑み込み一人勝ちを楽しむかに見える自由主義陣営の王者は、肥大化した大食漢の恐竜が滅んでいった時のように、いまや自滅の脅威にさらされている。今日の世界の混乱は、自滅を逃れようとする恐竜の悪あがきのせいではないだろうか。だれも、手がつけられない。うっかり手を出すと、やってけられてしまう。ならいっそうのことと、恐竜にすり寄って行く。それが、小泉日本ということだ。

経済理論は必要であろう。政治の力も重要である。しかし、それで人間の問題が解決するわけではない。一人の少年が、五つのパンと二匹の魚をイエスさまに差し出した。イエスさまはこれをとり、天を仰いで感謝の祈りをささげ、人々に配らせた。すべての人が満腹した。そして、パンの屑が十二の籠にいっぱいになった。

<はっきり言っておく。キリストの弟子だと言う理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。>ここは、マタイ福音書253140のあの物語と併せて読むと、その意味が明白にわかる。イエスは、「最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言っておられる。失われた一匹の羊を捜し出して癒し養うところに、この時代の救いがある。一個一個の小さな存在が互いにパーソン(人間)として出会い、シェアする(分かち合う)。そこに、真の分配への道がある。 
2002/08/04
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