父母を離れて マルコ福音書 10:1-12

 <天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。>

 家庭内暴力が、しばしば問題になる。否、毎日の新聞を見ると、親殺し、子殺しが日常化しているとさえ言える情況である。どこも、家(ハウス)は、昔に比べて随分立派になった。しかし、そこに健全にして幸せな家庭(ホーム)があるかというと、必ずしもそうではない。いま、日本の家庭は、非常に危ないところに来ているのではないか。

 一つには、親離れ、子離れがしっかりできなくなってきている。少子化時代に、親は、一人か二人の子供を溺愛する。子供を叱ったり、しっかりしつけたりすることができない。子供の言い分を聞くのがいい親だと錯覚している大人が多い。子供が大人の言うことを聞くのでなければならないのに、親が、子供の言いなりになっている。いい子が育つはずがない。少し大きくなると、親にはむかい、暴力をふるうようになる。親は、手におえなくなり、ある日、子供を殺してしまう。あるいはわがままに育った子供が、ちょっとしたことに腹を立てて、親を殺してしまう。

 親子は、血がつながっているが、一体ではない。それぞれ独立した存在である。いつまでもべたべたしていたのでは、子供は育たない。自立に向けての、意志的訓練が、今日必要のように思う。昔は、子供が多かったので、子供は自然に自立した。今は、子供が少ない。親が、よほど心がけないと、子供に自立のチャンスを与えるのに失敗する。いや実は、親が、いつまでも子離れできない。いつの間にか、子供依存症に陥ってしまっていることに気がつかないでいる。

 「人は父母を離れて・・・」とは、子供からすれば親離れ、親からすれば子離れのことである。このことがきっちりできなければ、良い家庭、良い人間の社会(共同体)を望むことはできない。

 親子は肉親だが夫婦は他人である、と言う。確かにその通りである。だからこそ、親子は、独立した存在として、切り離されなければならないのではないだろうか。そうでなければ、親も子も一個の人間になることができない。これと反対に、男は女に、女は男に出会う。出会いにおいて結ばれた夫婦は、一体なのである。一体とは、一人であると言ってもいい。だれも、自分を選ぶことはできない。自分は、ありのままの自分全体を受け入れて一生生きる。夫婦も、同じである。

よく、子は親を選べぬ、と言う。夫婦は、お互いを選ぶのかも知れない。しかし、お互いが勝手に選ぶのではない。それは、ある種の運命である。イエスは、「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と言われる。パウロは、「この神秘は偉大です」と語り、夫婦の関係はちょうどキリストと教会のようなものであると述べている(エフェソ5:21-22)。新しいイスラエルと言われる教会は、自然の民族共同体である古いイスラエルと区別される。結婚の奥義は、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。・・・こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人を造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」というところへ連絡する(エフェソ2:15-16)。

 いま、家庭が危ない。夫婦関係がしっかりした基盤の上に築かれていないからである。キリスト・イエスをかなめ石とした証しの家を建てなければならない。 
2002/08/11
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