僕になりなさい マルコ福音書 10:35-45

 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが、いずれ時がきたら自分たちをリーダーに起用して欲しいとイエスに願い出た背景には、若い頃のペテロにどこかリーダーとしては頼りないところがあったからではないか、と想像する。ペテロという人は、平気で人前に自分の弱さをさらけ出す人間である。見栄を飾ったり、もったいぶったりするところが全くない。いつも叱られ役である。イエスに叱られるだけではない。イエスの死後多くの年月を経てからも、人々の面前で、パウロからひどく叱責されたりしている(ガラテヤ2:11以下)。(ペテロと好対照なのが、イスカリオテのユダだ。彼は、叱られ弱いのである(マタイ26:23-25:34-35などを対比せよ。)

しかし、イエスは、そのようなペテロを重く用いられたのである(マタイ16:18、ヨハネ21:15以下)。ペテロは、イエスの信任に応え、生涯をかけて立派な指導者に成長していったのではないかと思う。ペテロの名が冠されているペテロの手紙一5章には、次のように書かれている。決して偶然ではない。少し長いが引用する。

<さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。>(5:1-4

さて、きょうの個所に戻るが、ヤコブとヨハネのことで弟子たちの間に不愉快な空気が漂い始めた。人間が集まると、小さな集団でも、すぐに派閥争いや主導権争いがはじまるのである。これは、避けがたい宿命のようなもので、人間の業とか罪の深さを思わせるものである。イエスさまも、このことはよほど心配されたのではないかと思う。<そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた>のである。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では(世間では)、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。」

威張るな、ということだ。ふんぞり返って威張る人がいる。揉み手をしながら威張る人間がいる。人間は、とかく威張りたがるものなのだ。いずれにしても、威張る人間は、教会のリーダーにふさわしくないのである。

イエスは、ヤコブとヨハネの言動に触発されて負けじと自己主張を始めた弟子たちに、人の上に立とうとする人は、「皆に仕える者」になりなさい、「すべての人の僕」になりなさい、と言われたのである。のし上がるための方便としてするのではない。イエスは、ご自身の模範を示して、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と言われた。

他者のために「自分の命を献げる」。ここに、キリスト者が、ペテロのように幾たびも失敗を繰り返しながらも、生涯をかけて希求し続けるべき目標があるのではないか。

2002/08/25
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