見えるようになりたい マルコ福音書 10:46-52

 「何をしてほしいのか。」イエスが語られたこの言葉が、先週読んだ個所の36節ときょうの51節とに出てくる。一方は、願い事をかなえていただきたいと言ってきたゼベダイの子ヤコブとヨハネとに対する問い、他方は、「わたしを憐れんでください」と言ってイエスのもとにやってきた盲人のバルティマイに対することばである。

 時期が来たら、わたしたち兄弟を抜擢し群れのリーダーにしてください。だれにも負けないいい働きをします。ヤコブとヨハネは、そう言ってイエスにお願いした。イエスは、「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」と言われた。ヤコブとヨハネは、自分たちこそイエスの最良の理解者であり協力者であるという自負を持っていたのに違いない。その彼らに、イエスは、あなたがたはわかっていないのだ、と言われる。イエスの最も近くにいる者が、イエスを知らない。イエスが、何を見、どこを目指して歩いておられるかを知らないのである。そして、そのことに気がついていない。

 バルティマイのほうはどうか。何をしてほしいのかを問われると、彼は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。彼は、見えないのである。見えないから、見えるようになりたいのである。イエスが道を通られるのを知った彼は、見えないながらも身体をイエスのほうに向けて、必死に、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。人々が彼を叱りつけ黙らせようとしても、叫び続けた。イエスは、彼を憐れみ、人々に来させるように命じられた。彼は上着を脱ぎ捨て、小躍りしてイエスのところに飛び込んで行ったのである。

 ヨハネ福音書に、生まれながらの盲人であった男が、イエスの言葉に従ってシロアムの池で目を洗い見えるようになった物語がある(9章)。その最後のところを読んでみよう。<イエスは言われた。「わたしが世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者が見えるようになり、見える者は見えないようになる。」/イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」>

 「慰めよ、わたしの民を慰めよ」(40:1)という言葉で始まる第二イザヤは、きょう読んだ42章では一転して、<耳の聞こえない人よ、聞け。/目の見えない人よ、よく見よ。/わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。/わたしが遣わす者ほど耳の聞こえない者があろうか。/わたしが信任を与えた者ほど目の見えない者があろうか。/多くのことが目に映っても何も見えず/耳が開いているのに、何も聞こえない。>という痛烈な呼びかけになっている。

 もう一箇所引用しよう。黙示録3章。ラオデキアの教会について、<あなたは、「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。・・・見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。>と書いている。

 「見えるようになりたいのです」と訴えたバルティマイにイエスは、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言って見えるようにしてあげられた。信仰とは、見えないから、「見えるようになりたい」。その切実な願いの中にこそあるのだ。見えるようになったバルティマイは、「なお道を進まれるイエスに従った」。イエスと共に歩みだすのである。途上の人間として。 
2002/09/01
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