ああ、エルサレム マルコ福音書 11:1-11

 <一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。>(マルコ10:32

 イエスのエルサレム入場は、今風に言えばまさに自爆デモである。死ぬことが分かっていて、まっすぐ前に向かって突き進むのである。

 <イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分に起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」>(同33-34

 そのあまりにも過激な生き方(死に方)に、正直、足がすくむ思いがする。

 福音書を読んでいて、そういった読み方が必ずしも正しいとは思わないけれども、しばしばジェームズ・ディーンの映画「理由なき反抗」のチキン・レースの場面を思い起こす。ディーンと彼と張り合う不良の頭とが、海に落ち込む断崖に向かって、合図で、いっせいに車を発車させる。先にブレーキを踏んだ者がチキン(臆病者)である。不良の頭は、袖をハンドルかどこかに引っ掛け、脱出に失敗し、崖から車もろとももんどりうって海に転落する。見物していた仲間の不良たちは、青ざめ、エンジンをかけ先を争って退散して行く。

 先頭を行かれるイエスに従って、どこまでついて行けるか。弟子たちは、最後はみんな逃げてしまった。ただ一人ペテロは、イエスを死刑にするために闇の中でかがり火を炊いて開かれた裁判の様子を見に、大祭司の庭に忍び込んで行った。しかし問い詰められると、あの男とは何の関わりもないと言い張って難を逃れる。彼は、「外に出て、激しく泣いた」(ルカ22:62)。

 わたしたちの眼前には、十字架が常に掲げられている。イエスは、十字架を目指してまっすぐに進んで行ってしまわれた。それが、衝動的な激情にかられての英雄主義の行為などでないことは、あらためて言う必要はない。わたしたちは、人に見せるチキン・レースに招かれているわけではない。生涯をかけて、イエスのみ足の後をたどる者として生きることへと招かれているのである。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8:34)。

 自爆デモ、と言った。自爆に、他を殺傷するニュアンスがあるとすれば、「棕櫚の日曜日」のイエスの行動を表現することばとしては全くふさわしくないので、取り下げることにする。三浦綾子の「塩狩峠」という小説。長い坂を下る列車のブレーキが利かなくなったことを発見した車掌が、列車の前の線路に身を投じて脱線を免れさせた実話に基づく小説である。車掌は、クリスチャンであったという。彼が主と仰ぐイエスは、歴史の流れにご自身の命を投げ出し、人々の命を救われた。それは、塩狩峠の出来事がそうであったように、現実の歴史の中で起こった出来事である。軍馬ではなく子ロバの背に乗ってエルサレムに上られたイエスの命をかけた行動を十全に表現する日本語をわたしたちはまだ知らないのかもしれない。政治的に非政治化され非歴史化されてしまった十字架のことばの本来の力を回復しなければならないのである。

 間もなく911日である。教会は、十字架のことばを語り、和解の福音を告げ、平和を造り出すものとして召されていることを、いまもう一度何よりもまず自らに告げ、互いに確認し直さなければならない。  
2002/09/08
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