葉だけ茂ったいちじくの木 マルコ福音書 11:12-25

 実りの秋、収穫の秋である。

 植物の生成は、見事である。新芽、花、緑、結実、収穫、落葉。気候や風土によって、また種類によって一様ではないけれども、花が咲き、実がなり、収穫、という順はだいたい同じではないだろうか。花も葉っぱも、結実に向けてのプロセスである。

 恒例秋の三教会対抗ソフトボール大会(連続三回目なので恒例と言っていいだろう)が先週日曜日の午後に開かれた。ことしも、ピッチャーをした。超スローの投球に、ボールに蝿がとまるよ、と野次が飛んだ。それでも、制球はまあまあだった。東小金井には、大勝した。優勝を決める二回戦目は、外野(センター)を守った。取れる飛球が二度とんできた。一度は、グローブに当てて落とした。二度目は、突っ込んで、倒れ、ボールを頭に当てた。サッカーなら、アン・ジョンファン並の見事なヘッディングだったとか。老いをしみじみと実感した。(結果は、今年も、めぐみが優勝、わがのぞみは一勝一敗で二位、東小金井が三位ということになった。)

 同じ時期、妻は白内障の手術を受けた。見るものすべてが一新し、大感激している。

 敬老の日、老いについて考えているのである。

 二三日前に、テレビをつけると、日野原重明さんが出ていた。九十歳の日野原さんにインタービューアーが、日野原さんは二千人とか三千人とかの人たちの死を見とってこられたけれども、ご自身の死についてはどのようにお考えですか、と訊いた。日野原さんは、死ぬというのは、生きるということの裏側です。わたしの死はほかの人が見ることになるでしょうが、わたしは生きることを考える、と言っておられた。

 きょうの聖書の個所には「いちじくの木を呪う」と表題が付されている。空腹のイエスがいちじくの木に実を求めて近づいていったが、葉っぱを茂らせるだけで実がついていなかった。<イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。>というのである。この記事にサンドイッチされて出てくるのが、「神殿から商人を追い出す」と表題が付されているいわゆる「宮清め」の記事である。イスラエルの宗教が本来の働きをしていない。外見は立派な神殿であるけれども、内実がない。無用の長物だ、というのである。

 ふと気がつくと、「引退」という二字を前にして、いろいろ考えている。老いを感じて引退を決意したわけではない。が、引退を決めて、急激に年をとった。山吹の実のひとつだになきぞ悲しき、か。いやいやそんな感傷にふけっている時ではあるまい。イエスは、「実がなってはいないかと近寄られた・・・」。呪われて枯れてしまったいちじくの木のようになってはならない、ということだ。実を結べ。宮清めを経て、再生せよということだ。九十歳の日野原さんは、「生きることを考える」と言われた。最後まですることが残っているということだ。

 ルカ13:6-9には、「実のならないいちじくの木のたとえ」が載っている。実をつけないいちじくの木のためにイエスさまが神様にとりなしていてくださるのである。「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」  

2002/09/15
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