何の権威で マルコ福音書 11:27-33

 聖書会の十五六人で神代植物公園へ行った。いつもは表門からだったが、この日は、裏門から入った。入る前に、「雀のお宿」でそばを食った。そこから門まで、深大寺を取り巻くように蕎麦屋やお饅頭屋、お花屋、陶芸の店など日本風の店が並んでいて、表の正門から入ったのでは分からない風情があった。

 途中、おもしろい陶器の話を聞いた。伊賀焼き(だったか)の名人が花器を作った。それは実に立派なもので、「花いらず」と呼ばれた。花をいける必要がないほどそれ自体が美しいのである。で、「(花)不要」にかけて「芙蓉」とも呼ばれたとか。

 いやぁー、すごい。きっと、「酒いらず」のぐい飲みなども作ったのではないか。「飯いらず」のお茶碗とかもね、という話になった。

 あとで考えた。「花いらず」かぁ。

 身近にもそんなことがありそうな気がした。

 「神いらず」の教会ってあるのではないか。立派な教会である。立派な先生がいて、立派な役員がいて、立派な建物が建っていて、立派な短期、中期、長期の計画が立てられていて、と立派尽くめの教会。立派な歴史や伝統に守られていて、ちょっとやそっとのことではびくともしない。

 「宮きよめ」の記事をサンドイッチして「葉の茂ったいちじくの木」の物語が綴られている。「・・・イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなっていないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった」。これは、間に挟まった形で語られているエルサレムの神殿そのものの姿である。壮麗な神殿。境内内外の賑わい。見事にマニュアル化された日々の祭儀、季節ごとの祭、歴史と伝統に守られた制度、制度によって権威付けられた祭司長や律法学者の身分。すべてが立派に整い、もはや神を必要としない。「神いらず」の神殿と教団が、ここにある。

 イエスは、葉だけ茂らせたいちじくの木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言って、その木を枯らしてしまわれた。神殿においては、「『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」と言って、宮きよめのあの荒業をなさった。

 これが、後に、十字架刑への大きな訴因となる。

 祭司長、律法学者、長老たちは穏やかではおられない。彼らは、イエスがエルサレムにやって来てまたまた神殿の境内を歩いているのを見かけると、イエスのもとに走り寄り、「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」とはげしく詰問した。「神いらず」の神殿教団の正体がそこに露呈されていると言える。ヘロデの(今日的に言えばブッシュの)庇護さえ受けて、もっぱら人間的な力と世俗的な権威に依存し、それを振りかざして、イエスを脅し、押さえ込もうとしている。

 カルヴァン研究の第一人者として知られる渡辺信夫さんは、戦中、若き日に「キリスト教綱要」を読んだがその書の「こころ」を読みとれなかった。戦後二度目に読んだ。そして次のように書いている。「思い返せば、あの時わからなかったから事件にならなかったが、もし私にわかったら、最後の章の最後の節の内容だけでも治安維持法違反になったし、教会のあの沈黙の中で憤死したのではないか。」そして、「では、今はどうなのか・・・・・・。」と書いている(「本のひろば」8月号)。そういったところへ教会は来ているようだ。  

2002/10/06
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