問いの形 マルコ福音書 12:13-34

 要するに、イエスのことばは、分かる人には分かる。分からない人には分からないということだ。これは、頭がいいとか悪いとかに関係ない。分からない人は、はじめから分からないのであり。いつまでたっても分からない。

このことは、きょうの質問者たちの問いのかたちに隠されている。そして、イエスの議論の切り上げ方の中にはっきり示されている。

ユダヤ人としてローマの皇帝に税金を払うのは許されることか否か。一見大いに真面目な設問である。しかし、イエスに聞いて、自分の考えや生き方を変えるつもりはこれっぽっちもないのである。つまり、聞く必要のない質問をしているに過ぎない。狙いはほかにある。イエスの言葉じりをとらえて陥れようとしていただけなのである。

「イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた」、とある。「下心」は、ヒュポクリシス、「偽善」である。イエスは、質問者たちの偽善を見抜き、銀貨を提示させ、そこに刻印されている皇帝の肖像を示しながら、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という後の時代の誰もが知ることになる有名なことばを答えとして与えるのである。

その答えは、見かけほど分かりやすいものではない。悪意に基づく質問を封じるものであり、自分でよく考えてみよという宿題(謎)のようでもある。

「復活についての問答」におけるイエスの答えも、ある意味では実にそっけないものである。質問者たちは、イエスを彼らの得意とする「神学論争」に引きずり込もうとする。イエスは、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないのか」と言ってさっさと彼らの仕掛ける観念的、思弁的な議論を切り上げてしまう。「神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。」というイエスのことばは、聖書の神が、モーセ、アブラハム、イサク、ヤコブというパーソンとしての個々の人間に語りかけ、その人生を導かれる人格的な神であることを示している。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変に思い違いをしている。」

(ちなみに、西欧の伝統的な神学に対して、解放の神学、民衆の神学、黒人の神学、女性の神学、茨冠の神学といった「の」入りの神学は、従来の神学とは違った新しい問いの形をもった神学なのである。そう。問いの形が違うのである。)

「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた」で始まるもう一つの問答は、次回になるが、この律法学者は、他の律法学者たちとは違った、新しい問いの形をもってイエスに質問している。問いの形といっても、外側の表現形式のことではない。結局、心という事である。この律法学者は、イエスの心にふれ、その心に呼応する質問をしているのである。それが、新しい問いの形なのである。その新しい形の問いの中で、彼は、愛こそがいかなる律法の行いにも優るという認識へと導かれて行く。「イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、『あなたは、神の国から遠くない』と言われた」のである。

いわゆる「拉致事件」。極めて非人間的事件である。しかし、らち被害者を迎えての日本側の対応は、これまた極めて非人間的である。被害者を表立って支援する政治家や時には被害者の周辺の者たちの「問いの形」がいま問題である。そんな中で、めぐみさんの母親早紀江さんの次のような言葉は別の問いの形を示している。<「日本政府は北朝鮮へコメ支援をしました。『飢えた人を助けたい。だから拉致した子供たちを返してくれ』という姿勢で臨んで欲しかった。北朝鮮には今も飢えた子供たちがおり、めぐみも帰ってきていません。」(「朝日」10/23朝刊)> 

2002/10/27   
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