「低み」から見る マルコ福音書 12:35-44

 「高みの見物」などと言うように、「高み」ということばはよく聞くけれど、不明にして「低み」という言い方もあるということは、わたしだけだろうが、知らなかった。菅原君が、神学校で聞いてきた言葉だ。で、辞書を引いたら、「低い所。低い部分」とちゃんと出ていた。それはともかくとして、「高み」から見るとはいうけれども、「低み」から見るとはあまり言わないような気がする。しかし、下からの視点、すなわち「低み」から見る、視点を「低み」に置くということが聖書を読む上でどれほど重要であることか考え、はたと、これからは「低み」ということばを自分の語彙の中に入れておかなければならないと思ったわけである。

 それにしても、ものを見るには高みにのぼる。わざわざ低みへ降って行く人はいない。しかし、実は、ほんとうのことは低みからでないと見えないのだ。たとえばきょうの、新共同訳で「ダビデの子についての問答」「律法学者を非難する」「やもめの献金」と表題がつけられている三つの段落。

 二つ目の段落から見てみる。いつも高みからしかものを見ることができない律法学者たちについてイエスは、「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けるようになる」と断定している。戦前、戦後、そして現在と、時代を三つに区分してみると、日本人は、戦前は脱亜入欧といって、欧米の仲間入りをし(たつもりになり)、アジアを高みから見下した。戦後は、精神年齢12歳とか言われて素直にこれを受け入れ、欧米に対しては卑屈に低みから見る癖をつけた。そして今は傲慢なアメリカに追従して、トラの威を借る狐のように高みから見下ろしている。そういった日本は、必ず裁きを受けることになる。

ペシャワール会の中村哲さんは、「ペシャワール会報」最新号(10/30発行)で、「ペシャワール会は多くの理解者を獲得して、現在会員11千名、募金は一年で10億円に迫り、次のステップを大きく踏み出しました」と書きながら、「私たちは決して、『アフガニスタンを救援する』などと大きなことは言いません。その日その日を感謝して生きられる、平和な自給自足の農村の回復が望みです。・・・カネがないとできない農業は、現地にむいていません。さらに、教育の破綻しかけた国が教育支援など、冗談にもほどがあります」と言っている。まさに「低み」からの発言である。このような人にこそ聞かなければならない。

三つ目の「やもめの献金」の記事は、ルカ福音書の「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」(18:9-14)などと同じで、イエスがいかに低みから人間を見ておられたかをよく示している。

 そして最初の段落。ユダヤ人たちは、ダビデの末裔にダビデのような政治・軍事的解放者としての王・メシアが出現してイスラエルを再興してくれるのを待望していた。しかし、この個所は、イエス・キリストはダビデより先にあった王である、なぜならダビデが彼を「主」と呼んでいる(詩篇110:1)からである。イエスは、ダビデのように(あるいはブッシュのように)政治・軍事的な力によって上から統治する王ではない。最も底辺にある人々の低みに身をおいて下から世を治められる王である。

教会が、低みからの視点を提示することに失敗するならば、この時代の人々は、ついにはまっとうな人間の視点を得ることができないのであり、人間の世界(共同体)を造ることはできない。そういったぎりぎりの局面に、今の時代は来ているのである。

2002/11/10   
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