終末の徴 マルコ福音書 13:14-37

「《秋の葉に 隠れて花芽 花ミズキ》ってどこかに書いたけど、どう(いいでしょう)? わたしたちの今の状況だよ」
「え・・・。何かぴんと来ない感じ」、と妻は首をかしげる。
「そうかな。どう、菅原君」
「ええ、葉っぱ見てみたけど、花芽は見つからなかったです」と、生真面目な返事。
「なにを見てんの。もう葉っぱはすっかり落ちた。小さなつぼみがいっぱいついてるのが見えるじゃないの」

先週の水曜日、聖書入門講座、「これが最終回になります」と言ってしめくくるのが、つらかった。翌木曜日の聖書会も、事実上、「最終講義」だった。人生は、出会いであり、居合わせることであり、別れである。これは、決して、自然現象ではない。長い年月一緒に過ごしても、ついに出会いが生じないこともあるような気がする。居合わせることとなれば一層偶然性よりも意志的、決断的な面が強くなってくる。出会いや居合わせることがなければ、別れもない。ただ時が流れるだけである。

長い年月をかけて、そんな他愛のないちっぽけなことを悟る。「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」ということが、ようやく少しばかりわかったような気がする。「マリヤはそのよいほうを選んだ」ということばには、神の国の福音を宣教するイエスさまのマリヤへの、何と言ったらいいだろうか、どうもありがとうという気持ち(appreciation)がこめられていた、と思う。伝道者にとって、どんなご馳走よりも、語られる言葉を真剣に聞いてくれることが、何にも優るもてなしなのだ。遅ればせながらそのことをしみじみと実感している。

エモーショナルな感懐にふけっているわけではない。教会の成否は、ことばにかかっている。そのことを言いたいだけである。聖書会、エフェソ書の最後の学びでは、610節以下「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」で始まる段落を読んだ。神の武具を身に着け、防御し、攻撃する。17節以下に、「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。・・・」とある。教会は、語るべき言葉を、神の言葉から取る。だからこそ、マリヤは「よいほうを選んだ」と言われたのである。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)。われわれの間では、この世の言葉ではなく、神の言葉が聞かれ語られなければならない。

歴史の進行と共に、危機が増大して行く。この国も、テロや戦争を招き寄せる愚行を積み重ねている。教会は、ある神学者が言っているように、地上に建てられた神の国のコロニー(植民地)である。この世のただ中に建てられているが、この世の原理によってではなく神の国の原理によって立つ共同体なのである。この世の知恵に支配させてはならない。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われた方のことばによって方向づけられ、導かれて行く群れでなければならない。「だから、目を覚ましていなさい。・・・主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない」のである。

2002/12/01    
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