教会の経済 マルコ福音書 14:1-11

 日本の経済は、にっちもさっちも行かぬところへと迷い込んでしまったようである。この先どうなるのか、わたしどもには見当もつかない。ただ言えるのは、経済は、計算通りには行かないものだということである。戦後、日本は神武景気、岩戸景気、昭和元禄とかいう時期を経て、奇跡的な経済成長を遂げ、世界を驚かせた。マレーシアのマハティール首相は、ルックイースト―日本にならえと号令し、長期政権を保持した。しかし、日本の経済的成功は、朝鮮戦争とベトナム戦争の特需に負うところが多い。計算外の「幸運」に恵まれたのだ。見通しの立たない今日の状況下で、そろそろ一戦争やってこないかと半ばさじを投げ天を仰ぐ不心得な政治家や企業家があったとしても不思議はない。要するに、経済は、計算通りには行かないのだ。

 日本の経済を論じるのが目的ではない。教会の経済について考えたいのである。教会が、計画経済の枠組みの中で運営されている。先の教会員総会において、来年度の教会会計予算が承認されたし、中会会議においては、中会の来年度の予算が承認された。これによって、教会は一定の見通しを持って、教会の運営、形成(あるいは経営)にあたることができる。そこで幅を利かすのが世間的な経験や知識・知恵である。統計とかシミュレーションとか何年計画とかといったものである。それらのものが、教会の運営に有用であり、大いに貢献していることは認めたうえで、しかしそれがすべてかということを声を大にして問いたい。統計による予想やシミュレーションなど、三四十年のスパンで見れば、殆ど当たったためしがないのである。銀行や企業や保険会社をみれば一目瞭然である。

 教会の経済は、予算や決算がすべてではないのである。大事な出来事はしばしば予算や決算に現れないところで起こっているのである。教会のリーダーたちは、このことをよくよく分かった上で教会の運営に当たるべきである。独裁者の悲劇は、自分の思惑通りに世の中が動くと錯覚しているところにある。青写真を描いて、その通りになると思い込むところにある。追従者たちの都合のいい報告を受けるだけで、民衆の実体を知らずその声を聞かないところにある。そういった悲喜劇は、教会でも起こり得るのである。

 「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができるのに。」

 正論である。計算上の正論である。しかし、この「無駄使い」がなければ、教会などとうの昔に存在意義を失っていたのではないかと思う。「貧しい人々」の援助を考える者たちが、計算上の正論を持ち出す。そこにある矛盾に気がつかなければならない。計算上の正論は、行政や役人に任せておけばいい。計算上の正論を越えて「無駄使い」するからこそ、教会は教会なのである。予想外、予定外、予算外の状況にぶつかり、思い切った決断ができるところに、教会があるのではないか。

 イエスは、「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」と言われた。「良い(カーロス)こと」とは、熱い人間の血が流れ心に響くいいようもなくすばらしい業のことだ。このカーロスさを、求めていかなければならない。

 歴史上最大の無駄使いは、イエス・キリストのご降誕と十字架である。

2002/12/08    
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