主の晩餐−解き放つ愛の革命 マルコ福音書 14:12-26

今週の水曜日(5日)から、レント(受難節)に入る。主イエスが歩まれた十字架への道を巡礼のように辿って行く季節である。

昨年、この教会の牧師としての最後の一年、マルコ福音書を選びそこから説教し、ナルドの壷の記事まで読んだ。招かれてお話するきょうの個所は、その続きである。主イエスが、十字架を目前にして、弟子たちと「過ぎ越しの食事」を摂られる記事である。きょうの礼拝では聖餐式が行われるが、聖餐式の起源を物語る記事である。

「過越し」の日は、イスラエル民族にとっていわば「建国記念日」である。その日、モーセに率いられたユダヤ人たちは、小羊を屠って食べ、その血を家の入口の柱と鴨居に塗った。エジプト全土を襲った主の裁きは、小羊の血を塗ったユダヤ人の家を「過越し」て行き、ついに彼らは神の民として、エジプトを脱出することができたのである。

<除酵祭の第一日、すなわち過越しの小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越しの食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。>

イエスの弟子たちもユダヤ人として当然のように、どこに過越しの食事の用意をしたらよいかを問うている。「過越し」が、ユダヤ人にとっていかに重要な祭であったかが分かる。弟子たちは、イエスの指示に従って、エルサレムのとある家の二階座敷に過越しの食事を用意する。イエスを中心に一同が座に着き、食事が始まる。<イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。・・・」>

コリント一11:23-26に、パウロが教会の伝承として書き記している「主の晩餐の制定」の記事があるので、そこを平行して読んでみる。「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。」という文言がある。イエスは、十字架において、ご自身の肉体を裂き、血を流された。聖餐式において、わたしたちはイエス・キリストの肉と血に与かり、新しい契約の恵みの中にある経験を繰り返し更新するのである。イエスは、ご自身を、犠牲の小羊として献げ、「過越し」に全く新しい意味付けをし、ここに新しい民を創設されたのである。それが、教会である。

イエスの十字架によって、新しい歴史が始まったのである。エフェソ書2:11-22を、主の晩餐に与かりパンとぶどう酒をいただくように味わいながら読むことをお勧めしたい。十字架の意味が、はっきり見えてくる。

イエスは続けて言われた。「はっきり言っておく。神の国で新たに飲む日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」新しい契約を授与されたイエスは、もはや古い形で「過越し」の祭を祝うことはない、という意味である。民族宗教としてのユダヤ教にはっきり別れを告げ、新しい人類共同体に向けての出発を宣言されたのである。コリント一11:26では、「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのです。」と述べられている。「主が来られる時」とは、神の国の完成の時である。その時まで、教会は、キリストの十字架を語り続けるのである。それは、教会の出エジプトである。イエスによって、教会は、古い時代から解き放たれた。愛の革命が始まったのである。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ3:16) 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(コリント一1:18「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15

2003/03/02    
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