三度「知らない」と言う マルコ福音書 14:27-31, 66-72

 411日付け朝日朝刊に、<三者三論−戦争と宗教>の特集が組まれ、それぞれ仏教、イスラム教、キリスト教の信仰者として知られる三人、瀬戸内寂聴氏、鈴木紘司氏、曽野綾子氏へのインタビュー記事が載っていました。「仏教徒として、また作家として、反戦の意思を」表明する瀬戸内さんのコメントに、わたしは殆ど全面的に賛成です。「911日の同時多発テロ事件がなかったら、イスラム教徒であることを表に出す必要は感じなかったと思います。本を書くこともなかった。あの事件を境にして、イスラム教徒に対する無理解と偏見が絶えられないものになっていきました」と語る鈴木氏にも、強い共感を覚えます。いただけないのは、キリスト教の曽野綾子氏です。煮ても焼いても食えない!「キリスト教における正義とは、『少数民族が圧迫されないこと』とか『冤罪がないこと』といった通俗的なことではない。『神と人との折り目正しい関係』のみをさします。ブッシュ大統領が神の前で、どのような決意にたって(戦争を)決断したのか、私には分かりません。ブッシュ大統領と神との個人的な関係は誰にも分からないでしょう。わからない以上、キリスト教の正義にかなうかどうか、何も言えないのです」と言い、また「私は政治は嫌いだし、自分でできるとも思っていません」などと言いながら、「日本政府が早々と米国支持を打ち出したことはどう見ますか」の質問には、「日本は自分で自国を守る方法をもっていないのですから、日米安保だって信じられるものではありません。日本も、自国を守るだけの最低限の軍備をもつべきです。私は自国は自分で守らなければならないと考えています。それが国というものでしょう」と言ってのける。それは、勢力としての硬直した特定の仲間を意識した極めて政治色のつよい発言であり、そこに、血の通った自由な人間としてあるいはひとりのキリスト教徒の作家として苦悩する、人間の姿を見ることは全くできません。

 ブッシュや曽野氏の発言や振る舞いをみて、キリスト教とはなるほどこういう宗教か、と変に納得してしまう人たちも多いことだろう。新聞を読んだ日は、ただただ悲しく、一日中、暗澹紋々と過ごすほかありませんでした。

 先週お話した説教の要旨を書くつもりが大いにそれてしまったようですが、わたしとしては、三度「知らない」と言ったペテロのことをずっと考えています。ペテロは、急激な情況の変化に戸惑い、どのように振る舞い、どのように語ったらよいのか、分からないのです。気がついてみれば、イエスは、逮捕され、大祭司の庭で裁判にかけられている。いったんはイエスさまを置き去りにしてほかの弟子たちと一緒に逃げ出してしまったけれども、夜の暗いのをいいことに大祭司の庭に入り込み、裁判の成り行きを眺めている。そして、三度「知らない」と言う。鶏が鳴く。二度目だ。ペテロは、「いきなり泣きだした。」

 ここのところを、ずっと考えています。「いきなり」は、訳しにくい単語のようです。「崩れ落ちて泣いた」と訳すこともできます。

 「知らない」と言った。知らないのではない。知っているのです。知っているけれども、知らないというほかないのです。そういった情けない情況に、わたしたちはいまある。手も足も出ないところに、教会が置かれている。崩れ落ち、いきなり泣き出さなければならないところに、来ている。このペテロの深い絶望がなければ、教会の再生はない。レントの日々このことを心に留め、イースターの朝を待ちたい。

2003/04/06    
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