「考えぬ葦」 マルコ福音書 15:1-20

 非歴史化された贖罪論ほど有害なものはない。非歴史化された贖罪論とは、歴史から切り離され、象徴化され、「昇華」された十字架である。デザイン化され、装飾化された十字架である。

 非歴史化された贖罪論から導き出されるのは、非歴史化された罪観である。罪は、内面化され、感情や情緒の問題として、あるいは気分や感じの問題として受け止められる。

 確かに、罪は、心の奥に潜むものである。しかし、イエスは、「人から出てくるものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出てくるからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」と言っておられる(マルコ7:14-23)。パウロも、こう書いている。<ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下(もと)にあるのです。次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮(まむし)の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」>(ローマ 3:9-18

 このように、罪は、実態である。単なる思いではない。「思い」が、何かの時に、隠しようもなく、抗し様もなく、実態として現出する。ブッシュの戦争に、われわれは罪を見る。ブッシュの戦争をサポートする者たちの中に、実態としての罪を見る。われわれもこれを阻止し得なかった、いやどこかで事実上承認していたという点において、まさに、同罪である。

 福音書がわれわれの眼前に描き出すイエスの十字架は、教理で包装された変に形の整った十字架ではない。ゴロゴロの道を途中までイエスが引きずって運び、釘付けにされ、殺され、絶叫して死んだ、血の十字架である。

 イエスを十字架につけたのは誰か。祭司長たちや、長老たち、律法学者たちである。彼らによって構成されるユダヤの最高法院である。また、ローマ帝国を代表する総督ピラトである。そして、何よりも、民衆である。二三日前には、「ホサナ」と言ってイエスを迎えた人々が、いまは、イエスを「十字架につけよ」と叫ぶのである。情勢がこのように傾くと、ユダヤ人の小役人やローマの下級兵士たちは、いっせいにイエスを愚弄し、侮辱し、頭を叩いたり、つばを吐きかけたりするのである。その中に、われわれは自分の姿を見るのである。

 われわれは、何と鈍感であることか。何と冷酷であることか。何と不正直であることか。何と残忍残酷であることか。何と健忘症であることか。何と恩知らずであることか。何と扇動されやすく、意志薄弱であることか。

 罪は、われわれの実態である。イエスは、われわれの罪を、罪のすべてをご自身の全存在において受け止めてくださった。十字架のイエスは、十字架につけた者たちのために、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られたのである(ルカ32:34)。

 パスカルは、人間は「考える葦」であると言った。人間は、葦のように弱い。しかし、「考える」ことにおいて偉大である、と。しかし、十字架は、人間が、「考えぬ葦」であることを暴露しているように見える。裁判におけるイエスの沈黙は、そのことをわれわれに気付かせるためのものであったのではないか。                             
2003/05/04    
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