Be a Person! それぞれのクリスマス マタイ2:1-12 ルカ19:1010

 先日、CPW(女性の会)のクリスマス会があった。美味しいご馳走があり、交換プレゼントなどもあって、楽しい会だった。ガラスのコップに生けた山茶花の花がテーブルにいくつか置かれていた。思わず「きれいねぇ」と、口々にほめた。わたしも、「きれいですね。色といい、形といい。どこから来たんですか」と聞いた。すると妻が、「なに言ってんの。うちから持ってきたのよ」と言ったので、大笑いになった。

 たしかに牧師館の玄関を開けると最初に目に入る位置に山茶花の木が植わっている。その日の朝も、目にしたに違いない。今年もきれいに咲いたねくらいのことは言ったかもしれない。しかし、こうして一二輪の花をアップで見ると、それはまったく違ったものに見える。大きな驚きである。

 後でわたしは、人に対しても同じ事をしているのではないかと思った。ただ一人、イエスさまは違う。わたしたち一人一人を、大勢の中の一人としてではなくて、一個の掛け替えのない人間として見てくださる。逢ってくださる。

 それが、クリスマスではないか。

 トルストイの「アンナ・カレーニナ」の出だしの文章は有名である。「幸福な家庭はみな一様に似通っているが、不幸な家庭はいづれもとりどりに不幸である。」

 いまクリスマスは、日本では、国民的行事である。それこそ猫も杓子もクリスマスを祝う。それはそれでいいとしよう。しかし、そこで味わう一般化された平板な幸せが、クリスマスの恵みと言えるのかどうかは疑問だ。むしろ、クリスマスを簡単には祝えないような、つまりトルストイが、「不幸な家庭はいづれもとりどりに不幸である」といった状況に置かれている人にこそ、クリスマスはあるのではないか。

 喪失の不幸がある。失業、失恋、失敗、失意失望、家族や愛する人を失った人。健康を失った人、ホームレス、精神や神経の不調に悩む人、家庭に問題を抱える人、将来に不安を抱えているひと、正義のために、平和のために苦闘する人など、あげればきりがない。ザーカイは、有り余る財産をどう用いたらよいか分からないで困ってもいた。

 「とりどりの不幸」において、イエスさまは出会ってくださる。それがそれぞれのクリスマスである。それぞれのクリスマスがなければ、クリスマスの真の祝福はない。メリー・クリスマスといって祝っているけれども、何を祝っているのか分からない。

 さてザーカイは、背が低いので木に登り、イエスのお通りになる道を先回りして待っていた。イエスは、上を見上げて、「ザーカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われた。

 こんな笑い話がある。一人の少年が屋根に登って、盛んに棒で天を引っかいている。星を取ろうとしているのである。そこを通りかかった大人が、坊や、もっと長い棒でなければ取れないよと言った。

 「最後のクリスマス」というエッセーを読んだが、わたしにとっていわば最後のクリスマスのこの日に、「まさはる、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と下から呼んでくださる声が確かに聞こえた気がする。40年間、いやそのもっと前から、屋根に登って星を取ろうとしていた。もっと長い棒でないと取れないよと教える者も大勢いた。しかし、そうする必要はないのだ、といまようやく悟るのである。

40年間、屋根の上にのぼって棒を振り回したのは必ずしも無駄ではなかったと思う。ザーカイは、木に登った。みっともないといったらない。しかし、降りて来なさい、という呼びかけを聞くためだったのではなかったかという気がするわけである。
2002/12/22    
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