夜回りが暁を待つにもまして 詩編 130

 いつわりの光が闇を隠している。闇にまみれて混濁した光は、命を与える「まことの光」(ヨハネ1:9)ではない。偽りの光である。

 詩編の詩人は、「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます」と叫んだ。

 ノーベル物理学賞の小柴さんは、 (廃坑となった?) 鉱山の地下1000メートルに、6000トンの水をたたえて、宇宙のかなたからやってくる素粒子ニュートリノに質量があることを証明した。「カミオカンデ」は、まさに「深い淵の底」に設置された実験・観測装置である。

 われわれの「廃坑」を捜しに出かけなければならない。それは、チルチル、ミチルの青い鳥のように、我が家にあるのかも知れない。自分自身の中にあるのかも知れない。神は、人間の悲惨を、この世の闇を感知する装置として、更にそこを突き抜けて、まことの光を望み見る装置として、贈ってくださるのではないだろうか。悲しみや、痛みや、苦しみの「深い淵の底から」、天を仰ぐ。主の名を呼ぶ。何という不思議な恵みではないか。あの羊飼いや東方の博士たちも、そのようにして天を仰いだのだ。

 秋のある日、来年の春そこに引っ越すアパートの三階からひとり外を眺めていた。一陣の風が吹き、林の木の葉がいっせいに滝のように流れ出した。秋は寒く、木々の紅葉はまれに見る美しさだった。黄金色の滝を、ただ茫然と眺めた。

 急用があって、翌日、アメリカのワシントンDCへ飛んだ。用事の合間に、泊めてもらった家のM夫人が、ポトマック川をはさんで対岸にある国立のように小さな町アレキサンドリアへ連れて行き、トーピード・ファクトリー・アート・センターを案内してくれた。戦時中の魚雷工場を改装して芸術家たちの工房にしたものだ。二三十人は下らない画家や、彫刻家、陶芸家が、工房を持ち、作品を展示している。女性画家の描いた鮮やかな紅葉の絵があった。彼女に、手帳に書きとめた下手なスケッチを見せて黄金の滝の話をした。写真にとったか、と彼女が言った。いえ、十秒か二十秒のことだった。彼女は、目を輝かせて、「カミオです。カミオ・アッピアランス、カミオ・モメントです」と言った。知らないことばだったが、意味は充分伝わってきた。

 家に帰ると、M夫人も高揚した気分で、大きな辞典を取り出し、cameo のいくつかの用例の中から、俳優の特質を最もよくとらえた一瞬の写真や名場面といったところを読み上げて、これですね、と言った。

 ワーズワースに、「ダッフォディルズ(黄水仙)」という詩がある。浮雲のようにぽつねんと漂泊する詩人の、湖畔に群生する黄水仙の揺らめくのを見た時の感動を歌ったものだ。心に焼き付いたその光景が、後の日々、彼を孤独の淵から救うのである。カミオである。漠然と記憶していた詩の意味が、四五十年もして、初めて分かった気がする。

 カミオついでに、百人一首から、<千早振る 神代もきかず 龍田川 から紅に 水くぐるとは> そして、<嵐吹く 三室の山の もみじ葉は 龍田の川の にしきなりけり> いにしえの龍田川の紅葉は、さぞ美しかったに違いない。ベツレヘムの星空のように。

 このクリスマス、神の栄光を垣間見る一瞬の幸運にまみえることができたなら・・・。
2002/12/15    
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